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第04話 去った彼の、その後

مؤلف: あおはな
last update تاريخ النشر: 2026-02-01 16:00:04

 ノワール・ヴァレリアンが王都から姿を消してから、数日が経過した──いや、時の流れが鈍くなったように思えた。

 王立騎士団の寮。

 かつて彼が暮らしていた簡素な一室には、もはや何ひとつ残されていなかった。

 剥き出しの床板。空っぽの棚。埃をかぶった窓枠。

 どこを見ても、そこに誰かが住んでいた、気配は微塵もない。

「ここ……誰か使ってたっけ?」

 新入りの団員が、扉の前で不思議そうに首を傾げる。

 返ってきたのは、嘲るような声だった。

「ああ、魔力ゼロの『勇者様』の部屋だよ。消えてせいせいしたな」

「まさか、いなくなるとは思わなかったよな。まあ、雑草が抜けたみたいなもんか」

「どうせ山奥で野垂れ死んでんだろ。名も血もない奴の末路さ」

 彼らの笑い声が、誰もいない部屋に空しく反響した。

 その床の隅に、黒い糸くずがひとつ、落ちていた。

 まるで、彼の痕跡がこの世に残した最後の『証』であるかのように。

 誰も気づかない。誰も拾わない。

 ノワールという存在は、まるで最初からこの場所にいなかったかのように、忘れ去られていく。

   ▽

 エヴァレット侯爵家の私室は、静まり返っていた。

 ふかふかの羽毛布団に包まれ、カローラ・エヴァレットは身動きひとつせず横たわっている。

 額に乗せられた冷たい布だけが、火照った肌にわずかな慰めをもたらしてくれている。

 ──まるで、壊れた人形のようだった。

 あの日――ノワールとの婚約を破棄した、あの雨の日を境に、彼女の身体は言うことを効かなくなってしまった

 熱は下がらず、食事も喉を通らない。

 瞼は重く、心はどこまでも沈んでいく。

 医師は『神経性の過労』と診断したが、真の理由に触れる者はいなかった。

 むしろ誰もが、無言でその『傷』から目を逸らしていたからである。

 カーテン越しに微かに揺れる光。

 冷えた空気が室内を撫でる中、侍女セリアがそっとスープを盆に乗せて近づいた。

「――カローラお嬢様。ほんの少しでも、お口に……」

 その声は、ひどく優しかった。

 けれど、カローラは首を振った。ゆっくりと、力ない動作で。

「ご無理をなさらずとも……あのような者のことで、心を煩わせる必要など……」

 セリアの声が、かすかに震える。

「お嬢様は、間違っておられませんでした。あの方とは……生まれも、立場も……あまりに違いすぎたのです」

「……違う……私は……」

 ほんの少し動いた唇から、かすれた声がこぼれ落ちた。

 それは、否定の言葉だった。けれど、セリアは気づかないふりをした。

「……正しいご判断でした。お家のため、未来のため……貴族としての、理を貫かれたのですから」

「……正しい……こと、だったのよね……」

 その言葉は、自分自身に向けられていたかのように感じた。

 何度も繰り返し、念仏のように呟かずにはいられない――そうしなければ、自分が崩れてしまいそうだったから。

 やがて、数日が経ち、熱は少しずつ引いていく。

 しかし、それでもカローラの内側に空いた穴は、埋まることはなかった。

 回復したある朝。

 彼女は、姿見の前に立った。

 淡い薔薇色のドレス、皺ひとつないレースの袖。

 編み上げられた髪には、真珠の髪飾りがきらりと光る。

 鏡に映るのは、完璧な侯爵令嬢の姿――欠けたところなど、何もない。

 けれど──その瞳の奥には、何も宿っていなかった。

 光も、熱も、感情の色も。

「……よかった」

 その呟きは、あまりにも無機質だった。

 まるで、音だけを発する壊れた機械のような、感情の抜け落ちた声。

「……本当に、これで……よかったのよね」

 誰に語りかけるわけでもない。

 ただ、言葉にするたびに、胸の奥が少しずつ冷えていくのがわかる。

 『正しさ』を言い聞かせるたび、『確かさ』が、ひゅう、と風のように抜けていく。

 ノワールの名を呼ぼうと、唇を開いた。

 けれど、声にはならなかった。

 喉の奥が固く閉ざされ、何も出てこない。

 彼の顔を思い出そうとした。

 なのに、その輪郭がぼやけていた。

 笑っていた瞳。

 凛とした横顔。

 まっすぐで、不器用で──でも、優しかった手。

 どれもが、霞の向こうに簡単に消えていく。

 遠く、遠く――まるで夢の中の幻のように。

 そしてその夜、彼女は夢を見る――それは、幼い日の記憶。

 夏の森、木漏れ日が揺れる道を、小さな靴音が駆けていく。

「ノワール……」

 呼びかけると、木の陰から、少年が現れた。

 ――カローラ

 変わらぬ笑顔で自分の名を呼ぶノワールの姿。

 まっすぐで、少し照れたようなその瞳。

 彼はいつものように、手を差し出してきた。

 あの頃と同じように、そっと。迷いなく。

 カローラも手を伸ばす。

 あと少し、あと少しで、指先が触れ――その瞬間、世界が崩れた。

 夢の森が砕け、光が揺らぎ、温もりが霧散する。

「……あ……」

 頬に、熱いものが伝っているのがわかった。

 現実では決して流すことのなかった涙。

 静かに、けれど止まらずに、こぼれ落ちていく。

 それは、ずっと奥にしまい込んでいた後悔――凍りついていた心の奥に、ようやく届いた、ひとしずくの温もりだった。

「の、わーる……」

 カローラは泣きながら、静かに嘗ての婚約者の名を呼んでいたのだった。

   ▽

 その頃、遥か北の果て、吹雪と崖に閉ざされた山岳地帯。

 人の手も声も届かぬ氷の世界に、ひとりの少年がいた。

 ――ノワール・ヴァレリアン。

 その名を、もはや誰も呼ばない。

 けれど彼は、確かにそこに立ち続けていた。

 凍てついた岩肌、吹きすさぶ風。

 雪に覆われた崖の上、彼は剣を握っていた。

 その手は傷だらけで、指の節は裂け、皮膚は氷のように冷え切っている。

 それでも彼は、剣を振るうのを止めなかった。

「──はっ、はっ……」

 浅く、荒い呼吸、体力は限界を超え、意識も朧――けれどその腕は、鋼のように動きを止めることはなかった。

 何千、何万と繰り返された剣の型。

 それはもはや『技』と言うモノではなく、『執念』そのものだった。

 振り下ろすたびに、空気が裂ける。

 舞い上がった雪が、彼の身体を切り刻むように叩きつける。

 それでも、彼の瞳は、ひとときたりとも逸れなかった。

 前を見ていた。遥か彼方──もう二度と届かぬと思い込んだ『彼女』を、ただ真っ直ぐに。

 ──『守る』ための剣ではない。

 ──『正義』のための力でもない。

 これは、彼だけのもの。

 誰にも、何者にも奪わせない。

「……結局、俺は……いらなかったってことか」

 呟きは、吹雪に掻き消される。

 けれど、その言葉の裏に秘められたものは、悲しみでも諦めでもなかった。

 ──それは、彼女を手放さないという、静かな狂気だった。

 たとえ捨てられたとしても。

 たとえ裏切られたとしても。

 彼の心は、十年前のまま。あの日の雨の中に置き去りにされたままだった。

 その執着は、時間を超えて腐敗もせず、むしろ研ぎ澄まされ、磨かれ、剣とともに研がれていった。

「……だったら」

 ノワールは、氷のように冷えた空を見上げた。

「世界そのものを変えてやる」

 その言葉に、愛はなかった。

 でも、誰よりも強く、たった一人の人物を強く望む、それ以上に重い感情が、確かに宿っていた。

「君の世界を、君の理想を、痛みを、未来を……全部、俺のものにする」

 その声は、低く、静かだった。

 まるで凍土を貫く雷のような鋭さで、大気を裂いた。

 それは願いではなかった。

 救いを求める祈りでもない。

 ──ただの命令。

 己の心に課した、絶対不可侵の命令。

 彼女のすべてを『手に入れる』ために。

 誰にも渡さず、誰にも近づけさせず、自分のものとして刻み込むために。

 たとえその愛が、歪んでいても。

 たとえそれが、彼女を傷つけるものであっても──ノワールはそれを『愛』だと信じていた。

 唯一無二の、手段を選ばぬほどに純粋な、

 他の何者にも代えられぬ、たった一つの想いだった。

「……俺は、まだ終わっちゃいない」

 少年の瞳には、静かに狂おしい光が宿る。

 その瞳は、もうかつての無垢さを宿してはいない。

 温かさでも、悲しみでもない。

 ──ただひたすらに冷たく、

 ──けれどその奥に、絶対に消えぬ焔を抱えていた。

 それは、彼の時間が止まったあの日から、ずっと燃え続けている焔。

 鉛色の空の下、吹きすさぶ風の中、たったひとりの少年が、世界の理に背を向けて立っていた。

 その剣は、いつかすべてを斬るだろう。

 彼女の心すらも、例外ではなく──。

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  • 貴族令嬢は【魔力ゼロ】の少年との婚約を破棄した。十年後、彼は神をも斬る最強の勇者となり、傲慢な世界に膝をつかせ、ただ私を   第20話 この手を、二度と離さない

     ――これは、たったひとつの祈りの終わり。 そして、新たな世界の始まりだった。 静まり返った夜、月は雲ひとつない空に高く昇り、白銀の光を惜しげもなく地上へ降り注いでいた。 その光が、屋敷の奥にある古い庭園に、まるで静かな祝福のように広がっている。 ノワールとカローラは、そこで向かい合っていた。 月明かりの中に、ふたりの影が静かに寄り添っている。 そこは、かつてふたりが『出会った』場所だった。 幼いころの記憶が微かに残る、あの草むらの中。 貴族と孤児という身分の隔たりすら忘れ、ただ一人の『人』として、初めて言葉を交わした庭。 十年の歳月を超えて、ふたりは再びその同じ場所に立っている。 月光に照らされて、木々の葉がさやさやと揺れる音が、沈黙をそっと慰めている。 ノワールが、静かに口を開いた。「……お前が笑ってくれるなら、俺は、それだけで生きていける」 その声には、かすかな震えが混じっている。 世界を焼き、神を斬った男とは思えないほどに、脆く、繊細な響きだった。「世界なんかなくても、名誉が消えても、この身が朽ちても構わない。誰に否定されても、嘲られても……お前の笑顔だけが、俺の世界だった。それだけで、俺は何度でも、生まれ変われる」 彼の手が、ゆっくりと持ち上げられる。 その指先が、月の光を受けて青白く輝いていた。 剣すら要らない今、彼はただ――震える手を、カローラへと差し出す。 『力』ではなく、『心』で触れようとするように。 その手は、かつて数多の命を奪い、数え切れない咎を背負った手。 だが今は、ただひとりの少女の『選択』にすがるような、弱さを隠さない手だった。「……でも、お前が俺を拒むなら――」 ノワールの声はさらに小さく、風に溶けるようにかすれた。「そのときは……俺はこのまま消える。世界からも、お前の記憶からも、痕跡ごと消

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