LOGINノワール・ヴァレリアンが王都から姿を消してから、数日が経過した──いや、時の流れが鈍くなったように思えた。
王立騎士団の寮。 かつて彼が暮らしていた簡素な一室には、もはや何ひとつ残されていなかった。 剥き出しの床板。空っぽの棚。埃をかぶった窓枠。 どこを見ても、そこに誰かが住んでいた、気配は微塵もない。「ここ……誰か使ってたっけ?」
新入りの団員が、扉の前で不思議そうに首を傾げる。
返ってきたのは、嘲るような声だった。「ああ、魔力ゼロの『勇者様』の部屋だよ。消えてせいせいしたな」
「まさか、いなくなるとは思わなかったよな。まあ、雑草が抜けたみたいなもんか」 「どうせ山奥で野垂れ死んでんだろ。名も血もない奴の末路さ」彼らの笑い声が、誰もいない部屋に空しく反響した。
その床の隅に、黒い糸くずがひとつ、落ちていた。 まるで、彼の痕跡がこの世に残した最後の『証』であるかのように。 誰も気づかない。誰も拾わない。 ノワールという存在は、まるで最初からこの場所にいなかったかのように、忘れ去られていく。▽
エヴァレット侯爵家の私室は、静まり返っていた。
ふかふかの羽毛布団に包まれ、カローラ・エヴァレットは身動きひとつせず横たわっている。 額に乗せられた冷たい布だけが、火照った肌にわずかな慰めをもたらしてくれている。──まるで、壊れた人形のようだった。
あの日――ノワールとの婚約を破棄した、あの雨の日を境に、彼女の身体は言うことを効かなくなってしまった
熱は下がらず、食事も喉を通らない。 瞼は重く、心はどこまでも沈んでいく。 医師は『神経性の過労』と診断したが、真の理由に触れる者はいなかった。 むしろ誰もが、無言でその『傷』から目を逸らしていたからである。カーテン越しに微かに揺れる光。
冷えた空気が室内を撫でる中、侍女セリアがそっとスープを盆に乗せて近づいた。「――カローラお嬢様。ほんの少しでも、お口に……」
その声は、ひどく優しかった。
けれど、カローラは首を振った。ゆっくりと、力ない動作で。「ご無理をなさらずとも……あのような者のことで、心を煩わせる必要など……」
セリアの声が、かすかに震える。
「お嬢様は、間違っておられませんでした。あの方とは……生まれも、立場も……あまりに違いすぎたのです」
「……違う……私は……」ほんの少し動いた唇から、かすれた声がこぼれ落ちた。
それは、否定の言葉だった。けれど、セリアは気づかないふりをした。「……正しいご判断でした。お家のため、未来のため……貴族としての、理を貫かれたのですから」
「……正しい……こと、だったのよね……」その言葉は、自分自身に向けられていたかのように感じた。
何度も繰り返し、念仏のように呟かずにはいられない――そうしなければ、自分が崩れてしまいそうだったから。 やがて、数日が経ち、熱は少しずつ引いていく。 しかし、それでもカローラの内側に空いた穴は、埋まることはなかった。回復したある朝。
彼女は、姿見の前に立った。淡い薔薇色のドレス、皺ひとつないレースの袖。
編み上げられた髪には、真珠の髪飾りがきらりと光る。 鏡に映るのは、完璧な侯爵令嬢の姿――欠けたところなど、何もない。 けれど──その瞳の奥には、何も宿っていなかった。 光も、熱も、感情の色も。「……よかった」
その呟きは、あまりにも無機質だった。
まるで、音だけを発する壊れた機械のような、感情の抜け落ちた声。「……本当に、これで……よかったのよね」
誰に語りかけるわけでもない。
ただ、言葉にするたびに、胸の奥が少しずつ冷えていくのがわかる。『正しさ』を言い聞かせるたび、『確かさ』が、ひゅう、と風のように抜けていく。
ノワールの名を呼ぼうと、唇を開いた。 けれど、声にはならなかった。 喉の奥が固く閉ざされ、何も出てこない。 彼の顔を思い出そうとした。 なのに、その輪郭がぼやけていた。 笑っていた瞳。 凛とした横顔。 まっすぐで、不器用で──でも、優しかった手。 どれもが、霞の向こうに簡単に消えていく。 遠く、遠く――まるで夢の中の幻のように。そしてその夜、彼女は夢を見る――それは、幼い日の記憶。
夏の森、木漏れ日が揺れる道を、小さな靴音が駆けていく。
「ノワール……」
呼びかけると、木の陰から、少年が現れた。
――カローラ
変わらぬ笑顔で自分の名を呼ぶノワールの姿。
まっすぐで、少し照れたようなその瞳。 彼はいつものように、手を差し出してきた。 あの頃と同じように、そっと。迷いなく。カローラも手を伸ばす。
あと少し、あと少しで、指先が触れ――その瞬間、世界が崩れた。
夢の森が砕け、光が揺らぎ、温もりが霧散する。
「……あ……」
頬に、熱いものが伝っているのがわかった。
現実では決して流すことのなかった涙。 静かに、けれど止まらずに、こぼれ落ちていく。 それは、ずっと奥にしまい込んでいた後悔――凍りついていた心の奥に、ようやく届いた、ひとしずくの温もりだった。「の、わーる……」
カローラは泣きながら、静かに嘗ての婚約者の名を呼んでいたのだった。
▽
その頃、遥か北の果て、吹雪と崖に閉ざされた山岳地帯。
人の手も声も届かぬ氷の世界に、ひとりの少年がいた。――ノワール・ヴァレリアン。
その名を、もはや誰も呼ばない。
けれど彼は、確かにそこに立ち続けていた。凍てついた岩肌、吹きすさぶ風。
雪に覆われた崖の上、彼は剣を握っていた。 その手は傷だらけで、指の節は裂け、皮膚は氷のように冷え切っている。 それでも彼は、剣を振るうのを止めなかった。「──はっ、はっ……」
浅く、荒い呼吸、体力は限界を超え、意識も朧――けれどその腕は、鋼のように動きを止めることはなかった。
何千、何万と繰り返された剣の型。 それはもはや『技』と言うモノではなく、『執念』そのものだった。 振り下ろすたびに、空気が裂ける。 舞い上がった雪が、彼の身体を切り刻むように叩きつける。 それでも、彼の瞳は、ひとときたりとも逸れなかった。 前を見ていた。遥か彼方──もう二度と届かぬと思い込んだ『彼女』を、ただ真っ直ぐに。──『守る』ための剣ではない。
──『正義』のための力でもない。これは、彼だけのもの。
誰にも、何者にも奪わせない。「……結局、俺は……いらなかったってことか」
呟きは、吹雪に掻き消される。
けれど、その言葉の裏に秘められたものは、悲しみでも諦めでもなかった。──それは、彼女を手放さないという、静かな狂気だった。
たとえ捨てられたとしても。
たとえ裏切られたとしても。 彼の心は、十年前のまま。あの日の雨の中に置き去りにされたままだった。 その執着は、時間を超えて腐敗もせず、むしろ研ぎ澄まされ、磨かれ、剣とともに研がれていった。「……だったら」
ノワールは、氷のように冷えた空を見上げた。
「世界そのものを変えてやる」
その言葉に、愛はなかった。
でも、誰よりも強く、たった一人の人物を強く望む、それ以上に重い感情が、確かに宿っていた。「君の世界を、君の理想を、痛みを、未来を……全部、俺のものにする」
その声は、低く、静かだった。
まるで凍土を貫く雷のような鋭さで、大気を裂いた。 それは願いではなかった。 救いを求める祈りでもない。──ただの命令。
己の心に課した、絶対不可侵の命令。彼女のすべてを『手に入れる』ために。
誰にも渡さず、誰にも近づけさせず、自分のものとして刻み込むために。 たとえその愛が、歪んでいても。 たとえそれが、彼女を傷つけるものであっても──ノワールはそれを『愛』だと信じていた。 唯一無二の、手段を選ばぬほどに純粋な、 他の何者にも代えられぬ、たった一つの想いだった。「……俺は、まだ終わっちゃいない」
少年の瞳には、静かに狂おしい光が宿る。
その瞳は、もうかつての無垢さを宿してはいない。 温かさでも、悲しみでもない。──ただひたすらに冷たく、
──けれどその奥に、絶対に消えぬ焔を抱えていた。それは、彼の時間が止まったあの日から、ずっと燃え続けている焔。
鉛色の空の下、吹きすさぶ風の中、たったひとりの少年が、世界の理に背を向けて立っていた。
その剣は、いつかすべてを斬るだろう。 彼女の心すらも、例外ではなく──。雪解けの春が訪れてから、三年目の冬がこの村を包もうとしていた。 辺境の地、フィオレ――森と湖に抱かれたこの場所は、王国の地図からも抜け落ち、誰にも顧みられない静謐な空間として、ただそこに在った。 かつて神を斬り、王国を揺るがした男の姿など、ここにはない。 あるのは、薪を割り、子を抱き、スープを温めるただの父親の姿。 その名も、ノワール。 朝、カローラは戸口を開けて、小さく息をつく。 白い息が空に溶けていき、降り積もる雪はまだ浅く、木々の間から差し込む朝の光が、世界を仄かに照らしていた。「……寒いわね、今日も」 振り返ると、小さな足音が近づいてくる。 「ママ、ママっ、雪! ほら、ゆきだよ!」 まだ幼い女の子が、嬉しそうに外を指差している。 ふわふわの髪はカローラに似て柔らかく、目元と口元には、どこかノワールの面影が宿っていた。「ええ、見えてるわ……冷たくなるから、お外はパパが帰ってからにしましょうね」「うん……でも、あのね、ゆきのにおいって、ちょっとおいしそう」「ふふ、それは雪じゃなくて、パンの焼ける匂いじゃないかしら?」 母と娘の笑い声が、小さな家の中に柔らかく響いた。 ノワールは、その声を背に受けながら薪小屋から戻ってきた。 戸を開けると、少女が真っ先に駆け寄ってくる。「パパ、おかえり!」「ん。……ただいま」 無骨な男の口から返るその一言は、誰よりも誠実で、温かかった。 ノワールは娘の頭をそっと撫で、雪の付いた肩を軽く払い落とす。 その手はかつて神を屠った剣の手でありながら、今はただ、小さな命を優しく包むためだけに存在していた。 カローラは微笑みながら、薪を受け取る。 ノワールと交わす視線の中には、言葉を超えた絆があった。 「朝ごはん、できてるわ……スープ、少し冷めちゃったかも
カローラは、ふと鏡に映る自分の顔を見つめることがある。 薪の炎が揺れる小さな家の壁にかけられた、小さな銀縁の鏡。 その中に映るのは、どこか静かに落ち着いた、見慣れないほど柔らかい表情をした自分。 若くして貴族令嬢と呼ばれ、刺繍のドレスと決まりきった笑顔を着ていたあの頃――政略、名誉、婚約。 そうした言葉の中で、自分という存在を押しつぶして生きてきた少女は、今ここにはもういない。 火の灯るこの静かな家で、誰の目にも晒されず、ただひとりの隣で生きている。 それは、名誉でも義務でもなく、自ら選んだ日常。 彼の隣に在ること、それだけが、今の彼女の人生だった。 ノワール。 嘗て『黒衣の勇者』と呼ばれた男。 今では、村の誰もがただの一人の男、『ノワール』としか知らない存在。 彼は薪を割り、土を耕し、雨の日には無言で窓の外を眺めている。 あまりに静かで、あまりに平凡で――それでいて、彼女だけが知っているのだ。 平穏の奥に、どれほどの『絶望』と『異常』が潜んでいるかを。 この男の手は、かつて神を斬った。 王に膝をつかせ、信仰を捻じ曲げ、人の倫理と秩序を粉砕したその手が、今は温かいスープの鍋をかき回している。 だが、力は失われていない。 いや、むしろ――今もなお、世界を終わらせるだけの力を抱えている。 その全てを、たった一つの『願い』のために。 自分という存在のためだけに。 ──狂気にも似た、純粋な執着。 ある晩、火が赤々と燃える暖炉の前で、カローラは膝を抱えながら、ぽつりとつぶやいた。「……私を選んだんじゃないのよね」 ノワールは、振り返らなかった。 火の中に目を落としたまま、ただ静かに聞いていた。「あなたが選んだのは、『罪』だった……そうでしょ?」 ノワールの瞳が、ふとカローラへと向けられる。 その黒い目は、昔から変わらない。沈黙の中に、すべてを語る目だった。
その日が近づくと、カローラは朝から落ち着かない心地になる。 辺境の村にも春の兆しが差し始め、窓の外では木々が薄緑の芽を覗かせていた。 鳥たちがさえずり、土の匂いが柔らかく空気に混じる。 冬のあいだ閉ざされていた世界が、再び目を覚ますように、生の気配で満ちていく。 けれど、彼女の心に芽吹くのは、自然の変化ではなかった。 ──十年前。 すべてが光に包まれていた、あの眩しい初夏の一日。 小さな庭で、まだ幼い彼に向かって、彼女は無邪気に言ったのだ。『「守ってね』と。 何の打算も知らない、ただまっすぐな子供の願いとして。 侯爵家の庭園に咲いていた白い花。 彼女はそれを摘み、自分の髪にそっと挿して笑った。 あの時に交わした拙い約束は、今も彼女の胸に、色褪せることなく残っている。 春の訪れと共に、今年もその記憶が彼女の心をやさしく波立たせていた。 辺境のこの村にも、確かに春は訪れる。 夜の霜がゆるみ、凍てついた地面から草が芽吹き、空気にわずかな温もりが宿る。 そして──その季節になると、村の道の向こうから、毎年同じものが届く。 小さな包み――粗末な紙に包まれた手のひらほどのそれは、遠く長い旅をしてきたかのように、うっすらと埃をかぶっていた。 中には、一輪の白い花。 花弁は瑞々しく、まるで今しがた摘まれたかのような新鮮さで、指先に触れれば、朝露の余韻さえ残しているかのようだった。 柔らかな香りが、胸の奥を切なく揺さぶった。 手紙も、差出人の名もない。 言葉ひとつ添えられていない。 けれど、それが誰から届いたのか――カローラには、痛いほどわかっていた。 たった一輪の白い花。 それは、十年を越えても変わらぬ『誓い』の印。 彼が、毎年この日を忘れることなく、どれだけ遠く離れていても、どれほど言葉を交わさずとも、カローラを想い続けてきた証だった。 花びら一枚一枚に、彼の無言の想いが染み込んでいる気がした。 この世界のどこかで、自分が生きていることを、彼は確かに覚えていてくれている。 それだけで、心が熱を帯びた。 カローラはその白い花を、静かに、丁寧に押し花にする。 潰れぬように、壊さぬように、そっと、慈しむように紙に挟む。 そして、古い日記帳の一ページに、今年の記録を書く。 『また届いた』と書きながら、彼女は一年分の小
王都、ヴァル=エルレア。 かつては信仰と栄光が交差し、神殿の鐘が朝と共に鳴り響いていた都市。 だが今、その鐘は沈黙していた。 白壁の神殿は封印され、門前に立つ者はなくなった。 かつて人々が頭を垂れた英雄の石像は撤去され、その破片が広場の隅に積み上げられている。「……何もかも、終わったように見えるな」 ローランド王は窓の外を眺めながら、誰にともなく呟いた。 その背中は、王国を支えてきた威厳を失い、ただ老いたひとりの男のそれに変わっていた。 重苦しい静けさの中、若い侍従が声を低くして問う。「……陛下、記念碑の撤去について、正式な告知を民へ?」「必要ない。民はすでに……すべてを知っている」 その声には疲れが滲んでいた。 いや、疲労ではない。 もっと深い場所で、何かが決定的に崩れてしまった者の声だった。「神を斬った男……ノワールという異端の『勇者』を称えようとしたのは、我々自身だ」 王は机の上の羊皮紙に視線を落とした。 それは、かつて彼がノワールに与えた――『望むものを授ける』と書かれた褒賞の誓約書。その下には、今も王自らの署名が残っていた。「……だというのに、彼が望んだものは、栄光でも、土地でも、地位でもなかった。ただ一人の『女性』だけだったのだ」 室内に微かな緊張が走る。 誰も名を口にしなかった。その名前を出すことが、何か大切なものを壊してしまいそうで。「我々は……彼を何一つ理解していなかったのだよ」 王は唇を噛み、ゆっくりと言葉を継いだ。「力だけを見て、利用価値ばかりを量ろうとした……だが、あの男は確かに『人間』だった」 手のひらをそっと空へ向けるように、彼は天を仰いだ。「神を斬ったその手で、たった一人の女を選んだ。民でも、国家でも、神でもない……彼のすべてを投げ出しても惜しくないと信じた存在を……だが、それが……我々には理解できなかった。否、理解しようとすら、しなかったのだ」 重苦しい沈黙が落ちる。 やがて王は深く息を吐き、椅子に腰を下ろした。そしてぽつりと呟いた。「……だがな、不思議なものだ」「彼が『あの娘』を選んだことだけは、なぜか……私の胸に、小さな安堵をもたらしている」 侍従が戸惑いを隠せず、小さく眉をひそめた。「安堵……に、ございますか?」「ああ」 王はわずかに微笑んだ。その笑みには、ほの
王都から北東へ、馬で十日。 広大な森林ときらめく湖に囲まれた辺境の村──フィオレ。 地図にもほとんど記されることのないその地は、旅人の間でも語られることのない、まるで世界から忘れ去られたような村だった。 その静寂の中に、ノワールとカローラの姿があった。 まるで、世界の喧騒から自らを切り離したかのように、ひっそりと。 この地の朝は霧とともに始まり、夜は風とともに閉じる。 夜明けに現れる乳白色の霧は、すべてを柔らかく包み込み、まるで過去の影すら覆い隠すようだった。 ここには戦も魔獣も届かず、貴族の命令も、王の意志も届かない。 そんな場所で、彼らは人目を避けながら、しかし寄り添うように、静かな日々を送っていた。 ノワールは仮面を外し、黒衣を脱ぎ、勇者という象徴を捨てた。 古びたチュニックに袖を通し、木を割り、水を汲み、畑を耕す。 その鍛え上げられた身体は、土の感触にも驚くほど馴染んでいた。 外から見れば、ただの寡黙な青年。 勤勉で、村人からの信頼も厚い『ひとりの男』だ。 だが――カローラだけは知っていた。 彼の中に今なお残る、世界を斬り裂いた力の残滓を。 触れるものすべてを焼き尽くすほどの、神すら殺せる男の余韻が、彼の沈黙の奥に息づいていることを。 ある日、村の子供が木から落ちて怪我をした。 幼い悲鳴に、村人たちが駆け寄る。 ノワールは黙って傷に手をかざしただけで、血は止まり、腫れも引いていった。 少年はすぐに立ち上がり、笑顔を取り戻した。「すごい、おじさん!魔法使いみたいだよ!もう痛くない!」 少年の無邪気な声に、ノワールは少しだけ笑った。 それは、かつてカローラだけに見せた、不器用で、しかし心からの微笑みだった。 だがその光景を、カローラは木陰からそっと見つめていた。 彼の優しさを見るたび、胸の奥が締め付けられる。 まるで、それがあまりに眩しくて、手が届かないもののように思えて。 彼は、これからも『人間のふり』をして生きて
――これは、たったひとつの祈りの終わり。 そして、新たな世界の始まりだった。 静まり返った夜、月は雲ひとつない空に高く昇り、白銀の光を惜しげもなく地上へ降り注いでいた。 その光が、屋敷の奥にある古い庭園に、まるで静かな祝福のように広がっている。 ノワールとカローラは、そこで向かい合っていた。 月明かりの中に、ふたりの影が静かに寄り添っている。 そこは、かつてふたりが『出会った』場所だった。 幼いころの記憶が微かに残る、あの草むらの中。 貴族と孤児という身分の隔たりすら忘れ、ただ一人の『人』として、初めて言葉を交わした庭。 十年の歳月を超えて、ふたりは再びその同じ場所に立っている。 月光に照らされて、木々の葉がさやさやと揺れる音が、沈黙をそっと慰めている。 ノワールが、静かに口を開いた。「……お前が笑ってくれるなら、俺は、それだけで生きていける」 その声には、かすかな震えが混じっている。 世界を焼き、神を斬った男とは思えないほどに、脆く、繊細な響きだった。「世界なんかなくても、名誉が消えても、この身が朽ちても構わない。誰に否定されても、嘲られても……お前の笑顔だけが、俺の世界だった。それだけで、俺は何度でも、生まれ変われる」 彼の手が、ゆっくりと持ち上げられる。 その指先が、月の光を受けて青白く輝いていた。 剣すら要らない今、彼はただ――震える手を、カローラへと差し出す。 『力』ではなく、『心』で触れようとするように。 その手は、かつて数多の命を奪い、数え切れない咎を背負った手。 だが今は、ただひとりの少女の『選択』にすがるような、弱さを隠さない手だった。「……でも、お前が俺を拒むなら――」 ノワールの声はさらに小さく、風に溶けるようにかすれた。「そのときは……俺はこのまま消える。世界からも、お前の記憶からも、痕跡ごと消







